打ち興じるといったようなことも日々行っておりました。また、中国の唐の書家の記したそういう屏風とか、あるいはその他の巻き物とかをお手本にして書道に打ち込んでいたという人もおります。
もちろん当初はこれらの文化というのは異質のものでありました。漢文学の専門家に聞きますと、7世紀末から8世紀初めぐらいのいわゆる漢詩、漢文でつくった詩ですけれども、大変ぎこちないものがあるというふうに言っておられます。当時日本では感情表現の一つとして和歌というものがありました。したがって外国の言葉である漢詩、しかもそれを作詩するための約束事がいろいろありますけれども、そういうものを十分認識しないと漢詩というものはできないわけですが、そこまでの認識がなかなかその当時の人にはできなかったようであります。
正倉院に伝わっておりますさまざまな宝物を見ますと、7世紀、これは正倉院宝物の一つの特色ですけれども、7世紀以前の我が国には恐らくほとんど用いられなかったのではないかと思われるようなものがございます。しかし8世紀にそういう文化がどんどんと中国あたりから入ってまいりました。それを咀囎、吸収しまして、先ほど申しましたような中国的な社会、国家というものが形成されていったわけであります。
それがさらに8世紀末から9世紀にかけますと、その当時の天皇の中で大変・言葉としては適当ではありませんけれども、中国かぶれをしたと言われるような天皇がいます。中国文化に大変な傾倒をしておりました。都がこの奈良の地から今の京都に移っていきますが、その時代を含めて少し後ぐらいのことになるのですけれども、したがって平安京の時代に入りますが、その平安京のできた間もなくに、先ほど申しました天皇は皇居に入る門の名前を全部中国風に改める、あるいは衣服の体裁も中国風のものにするとかいうようなことをしております。これは正倉院が建てられましてから、五、六十年ぐらい経過した後の話ですけれども、やはりその天皇は正倉院に伝わっておりました屏風を宮中に持ち出し、あるいは楽器を持ち出す。そしてそこで屏風の前で漢詩の会を開いたり、あるいはその楽器を用いて管弦の宴を催したりしたというようなことも伝わっています。
これはまさに中国の文化というものが最高の文化であるというふうに、その当時の人たちに認識されていたからであります。こういうふうな文化の一つの有り様を私どもは漢風文化と、漢の風と書きますけれども、漢風文化あるいは唐風、唐という言葉を使って唐風文化というような言い方をします。
ところが、今例として挙げました時代から本当に間もなくですけれども、我が国の文化は中国風から抜け出して和風化と言いますか、日本化と言いますか、そういうものに移り変わっていきます。新しい形式が生まれてまいります。もう少しそういうことに絡めて大胆に申しますと、現在の私どものさまざまな文化の基本的な形というのはこの和風化に基づいて形成されていると言っても私は過言ではないと思います。つまり日本文化の一つの型というのは、この9世紀の初めぐらいにもう形成されてきたのではないかというふうに考えます。
それではその9世紀の、今言いました前半期に漢風文化が最高潮に達して、その後和風化が進んだと、そういうふうにではすべて割り切っていいかというと、そこまでは言い切れないだろうと・ここでもう一度正倉院の宝物を振り返ってみますと、その宝物の中に明らかにシルクロードのデザインであったり、技法などシルクロードのあたりから伝わってきたものがたくさんございます。もちろんそういうものもありますけれども、先ほども少し触れましたが、我が国の工房でつくったと考えなければならないものもたくさんあります。そうだとしますと、それらの宝物は確かに漢風文化が最高潮に達する前から、8世紀の社会でいろいろな形でつくられ、準備されてきたのではないかと。漢風文化から国風文化、和風文化へと移り変わるその準備が8世紀の半ばぐらいから見られるのではないかというふうに思います。
日本の文化は中国ほどではありませんが、7世紀から8世紀にまさにああいう中国的な国家をつくりました。それ以前から中国や朝鮮とさまざまな交渉を持って独自の文化をつくってきました。そのものが一部根底にありますけれども、やはり8世紀の新しい文化と融合して、そこから日本的
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